『野比家のルーツ』補足 その2

7月26日

この記事は
2012年に掲載しました『野比家のルーツ』(詳しくはコチラ)の補足記事です。

(2)のび作の時代

(俺は歴史に関しては、
あまり詳しくないので、以下の文章が間違っている可能性もある事を
ご了承いただきたいと思います)

野比のび太の先祖、のび左エ門が生きた江戸時代後期、
鎖国体制をとりつつも、文化も経済もそれなりに成熟していたと思われる。

そんな文化と経済の恩恵をうけているからだろう。
野比のび太がみた文政九年の先祖の顔はどこか、呑気で穏やかだった。

だが、時代は徐々に激動の時代へと移り変わっていく。
まず文政九年から7年後の天保四年(1833年)に
江戸の三大飢饉の一つである天保の大飢饉が発生した。


幕府や藩が備荒対策をとっていたとはいえ、百姓達の生活に
大ダメージを与えて困窮する状態に陥らせた事には
想像に難くなかったと思う。
つまり、のび左エ門とその息子のび作の生活にも
深刻なダメージを与えただろうと思われる。


画像



その事で、各地の百姓達は
自分達の土地の領主や幕府に訴え出たと思う。


その訴え出る方法としては、合法的な訴願方法としての国訴と
(時代劇にも、よくあるシーンだと思うけど)自分達の土地の領主ではなく、
直接、老中に訴え出る等といった越訴があった。
(尚、越訴の場合、老中等に直接訴え出ても、聞いてもらえるどころか
厳罰に処されるのではと思いきや、越訴の作法にのっとり、
訴え出た内容にも筋が通っていれば、大抵の場合、
罪に問われるどころか、褒賞を与えられる場合もあったらしい)

また合法的でないと思われる訴願方法として、一揆がある。
一揆といえば、(若い世代は全く知らないと思いますが)
あのファミコンソフトの「いっき」の様に、竹やりでももって、
百姓達がアナーキーに暴動でも起こすのかと思いきや、
決して暴徒にはならず、田畑を荒らさず、役人に非礼な真似をしないこと等、
一揆として作法を守りつつ、組織化しながら一揆をおこす場合が、
(例外があるにせよ)ほとんどらしい。

(勝手な憶測になるけど)
ただ、江戸時代後期の野比家は
江戸近辺には住んでいた可能性は高い。

江戸といえば、文字通り、幕府の本拠地であり、
かつての享保の改革の様に、民百姓の困窮に対して、
それなりの対策は行われていた可能性もあると思われるので、
国訴や一揆を行わなくても、天保の大飢饉を野比家は
乗り越えたのかもしれない。

さらに時は流れ、1850年代にはいると、
時代の激動さは増してゆく。

1854年のペリー来航以降、
幕府は開国し、アメリカやイギリス等と通商条約を結んだ。

幕府としては、世界の情勢をみきわめ、条約を結んだ国々が、
貿易相手国としては、どう考えても、100%信用できない事、
自分達が弱国であるので、開国もやむなしと冷静に十分に承知しつつ、
貿易や開国に冷静かつ慎重に対処しようとしたが、

一部の雄藩(※1)等、後の明治維新の立役者の関係者からみれば、
腰抜けの卑屈な対応にみえたのかもしれない。

(※1)後の藩閥政治の土台になったと思われる雄藩、
これらの雄藩はいずれも、19世紀初めから、
財政の立て直しを行ったらしいが、
藩の中には、借財を踏み倒しただけでなく、密貿易までして、
財政の立て直しを行った藩もあったらしい。



この認識のすれ違いが、幕末の動乱につながっていったのかもしれない。

このペリー来航以降の幕末の動乱期、
野比家の当主はのび左エ門からのび作へとかわっていたと思う。

幕末の英雄達が憂国の情をもって、
多方面で活躍して奔走したらしいけど、
その英雄達の中には、
江戸近辺でも過激すぎる行動をするものもいたらしいので、
百姓にすぎなかった野比家の面々が枕を高くして眠れなかった日々も
あったかもしれないが、

どうにか、野比家はどうにか幕末の動乱をのりこえて、
明治維新をむかえることができたと思われる。

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